昭和48年01月元旦 朝の御理解
御理解 第99節
「無学で人が助けられぬということはない。学問があっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」
御理解 第100節
「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」
九十九節は、取り次ぎをする者に対するご理解のように思います。人が助けられるとと言うことを言っておられます。ですからこれは人が助けられると言うほどしの者は真、真心を持ってすれば、人も助けられる様になると言うのですから、おかげを受ける方の側、お取り次ぎを願う方の側、いうなら皆さんの場合であっても、と言う程しのものですから。真、真心が、必要である事は勿論です。取り次ぐ者も真、真心なら、取り次ぎを願う者も、また真、真心を以って願わなければならない。
そこには、自分が助かるだけではない。人までも助かる程しのおかげが受けられると言う御教えですね。お取り次ぎを願う者は、真でなくでも良いと言う事ではありません。ですから、ここでは、学者が身を食うと言うような事を言っておられますよね。無学でも人が助けられるとこう言っておられる。ですからこれはどういう事かと言うと、そんなら、無学の者がいいと言う意味じゃないです。
無学の者であろうが学問のある者であろうが、言うならばなべて、誰でもがと言う意味だと思うです。誰でもがおかげが受けられると言う事なんだ。誰でもがおかげが受けられる。お互い愈々本気でおかげを受けたいと言う願いを立てたなら、誰でもがおかげが受けられる。しかもそのおかげと言うのは、自分が助かると言うだでけはなくて人までも助かると。今の合楽でね、此処の所程求められておる時はないと思う位ですね。
何故ってこの二十数年間と言うものは、もう人が助かる人を助ける、お導きをすると言った様な事は、私が皆さんに言うた事がなかったもん。先ずはあなた方が助からなければならない。まずはあなた方がおかげを受けなければならない。と言う事のみを説いて来たように思うです。所が記念祭を境にです人が助からなければならない。自分だけじゃない自分一家だけじゃない、自分の周囲の縁に任せての人達も、助かって貰わなければならない。ですから頼んででもと言うて、お導きをさせて貰わなければいけない。
頼んででもお参りをして貰わなければいけない。勿論その人が助かって下さる為には、只頼むと言う事は自分の為ではない。その人自身も助かって貰わなければならないから。ですから頼む方の側が真心、真がなからずして助かる筈はないです。お話をする人が。夕べ除夜祭の後に装束を取ってここへ出て来ましたら、正義先生がここに待っとりました。新にお導きをして来た方二人をお導きしてきて、色々とお取り次ぎをさせて頂いたんですけれども、言っておりました。
親先生私は今度は、自分の所の従業員の皆に、先日から忘年会が有りました時に、皆に頼みましたとこう言う。来年こそはどうでもこうでも一つ、昨日の言葉でですよ。合楽にお参りしてくれと言うて頼みましたと。その頼んだ中のお二人が、昨日は参って来とる訳です。だから頼むという事もただ頼むとか、とにかく人をお導きしさえすればと言うこととは導くという事、そのこと事体が頼むと言うこと自体が、真心を以って頼まなければならないと言うこと。真を以って頼まなければならない。
ですから現在の合楽で、今ほど人が助けられるという信心を、言うておる時はなかろうと思います。もうこれは毎日のように、この事だけは所謂あの五つの願いという事を、皆さんにそれこそ私が頼むように、聞いて頂いておる訳です。どうでも皆さんに、おかげを頂いて貰わなければならない。愈々嫌が上にも健康であって貰わなければならない。為に体の丈夫を願うて下さいしっかり願いなさいよと。どうでも信心させて頂くなら家庭が円満でなからなければならない。家庭に不和のなきが元と仰るのだから。
家庭の円満もう家は、この位で良いと言う事はない。もう限りなく本当に拝み合うて行けれる所まで、願って願って願い抜かなければいけない。同時に今日の御理解百節にあります様に、金光大神は子孫繁盛家庭繁盛の道を教えるのじゃと仰るから、どうでも道を習いながら、子孫繁盛家繁盛の大みかげを頂かせて貰わなければならない。そして自分だけではない自分一家だけではない。自分に縁のある人達の上にも、そういうおかげを頂いて貰わなければならない。だから真心をもって頼んででもと言う事になる。
そういう大みかげを頂かせて貰うて、真実の御用にお使いまわしを頂きたい。神願成就のおかげを頂かせて貰う事を願い。その神様の神願で有るところの世界総氏子の助かり、世界中に和賀心時代を作らせて貰うという様な、信心の御用にお使いまわしを頂く。しかもいよいよ子孫繁盛家繁盛を願いながら、皆が子孫繁盛家繁盛のおかげを頂いて貰いたいと言う、真心を以って頼んででも、それを人に話しをして行くと言う様な、おかげを頂かねばならない。
その為には言うなら体の丈夫を願うからには、不節制な事は致しません大酒大食は致しませんと。昨夜今夜だけは良いでしょうと皆が言ってくれるんです。何時も除夜の鐘を聞きながら、おそばを頂くのが、私の方の家例でございますから。みんな御用を頂いておる方達も、皆今夜だけは運そばじゃから良いでしょうと言うけれど、もう夜食はせんと決めたから、私は頂きませんでした。体の丈夫を願わせて貰いながら、体に触るような事は、もう金輪際致しません。
その代わりに、どうぞ体の丈夫を頂かせて下さいと願う。ただ願うただけじゃいけんのですよね。例えば学生が、どうぞ試験が出来ますようにばっかり願うて、勉強をもししなかったら、そんな筋の通らない願いはありません。一生懸命勉強させて下さいと言う事を願わにゃいけん。愈々勉強が身につく事を願わにゃいけん。そして尚且つ、明日は試験でございますからと言う、試験の事を願わなければいけない。子孫繁盛家繁盛、それこそ枝も栄える葉も茂るほどしのおかげを頂いて行く事のためにです。
なぁにならんもんを買ったり、無駄使いをしたり又は、仕事に不忠実であったり。仕事はぶらぶらしたような仕事しかせんどいて、どうぞ繁盛だけを願ったって、こんな通らない話はありませんでしょう。ですからいよいよ仕事に忠実にならにゃいけません。夕べも昨日は、案外早く片付きました。十二時過ぎには片付きました。もう皆も休みました。私もここへ出て来て、最後のご祈念をさせて頂いておりました。そしたら誰かが後ろで、拍手して拝みよる。
ご祈念終わったら、深町つぁんが魚屋さんです、お参りして来とる。それからまたお届けをさせて貰い。除夜祭の模様やらお話やらをさせて頂いて、ご祈念させて貰ってそして帰った。それで表まで送り出させて頂いて、さぁ休ませて頂こうと思うて、御祈念させて貰いまたここへ出て来て、ご祈念をさせて貰いよったら、又表の方でざわざわ何か言いよる。そしたら、日田の綾部さん達が、一家を挙げてお参りをして来ておる。
年末の年末と言うがもう二時近くありました、もうその時には。もう私がです。そんなら私の御用は、お取り次ぎをさせて頂くという事が、私の御用ですから。やはりそれに忠実にもう頼んどきますよ、私は休みますよと言うても良い訳なんです。けれどもそんなら誰よりも彼よりも、やっぱり一番遅うまで、もう勝手の方も皆休んでおりました。そして休む時には、二時ちょっと過ぎておりました。
どうぞ言うならばです、繁盛を願わせて頂くならばです、やはりそれだけの働きをしなければいけません。御用に忠実にならなければいけません。そしてその上金輪際無駄使いの様な事は致しません。お粗末ご無礼の事は致しません。と言う条約と言うかね、そういう誓いを繰り返し立てさせて頂いて、神様に願わせて貰って初めて、家繁盛子孫繁盛のおかげが受けられる。
しかもそういう繁盛のおかげを頂かせて貰うて、健康のおかげを頂かせて貰うて、いやが上にも、家庭が拝み合うて行けれるような、家庭のおかげを頂かせて貰うて、そういうおかげを以って、本当の御用に使うて頂きたいと言う願い。いわゆる真実の御用にです。本当にお役に立たせて頂きたい。只お役に立たせて頂きたいの一念が燃えて来る。それが私共の願いだけじゃない。神願いわゆる神様の願いの成就の事にまで一生懸命祈られる。そして、その御用にお使いまわしを頂く。和賀心時代を創る。
その一つの運動だ。ある意味では宗教革命だ。そういう大きな御用にですそう言う一つの、運動員にでもお使い頂きたいという様な願いになって来る時に、この五つの願いというものはね、もうガッチリとした願いになってくる。目出度目出度の若松様よと、正月だけが目出度いのではない。もう日々が目出度い日々でなからなければならない。この五つの願いをです、本気で繰り返し繰り返し、しかも私だけではない家族を挙げて。自分の周辺の人達も併せて挙げての、そういう祈りがガッチリと出来させて頂く。
そこにです神様の、神願成就の言うならば、緒に付いたと申しますね。愈々神様の御神願が成就して行く事のためのです。言うならば道がここから開けようとする。そこに私共は御用に使こうて頂こうと言うのですから、神様が氏子めでたいのうと言う事になるのじゃないでしょうか。神様お目出とう御座います。今日もあなたの氏子が一人助かりしました。今日も又こんな目出度い事がある筈がない。
神様おめでとう御座います。氏子目出度いのうと所謂、神様と氏子が毎日毎日おめでとう御座います、おめでとう御座いますが言い交わされる程しのです、おかげを頂いて行くと言う事がです。今年の信心の焦点になると思うのです。勿論正月はめでたい。新たな年を迎えさせて頂いたという事は、生きておるという印ですから、これ程めでたい事はありません。例えばどういう難儀な中にあっても、今日只今私が生きておりますという事ほど有難い事はない。その事だけでも目出度い。
けれども私共が思うのに、本当に目出度いと言うのは、例えて言うならば、御普請が出来たとか、結婚式を挙げられたとかと言う時に、おめでとう御座いますと言う様に。私共が愈々益々健康であり、愈々家庭が円満であり、愈々日勝り、月勝り、年勝りにです。子孫繁盛家繁盛の実を上げて行くという事が、目出度いと言う事なんです。ですからそういうおかげを頂いて行くという事が、日々目出度いと言う事になるのです。
これはもう本当におかげを頂いてご覧なさいませ。盆も正月もありませんです。私共も、昔、私は大体気分屋ですから、さぁ正月と言うたらもう正月の雰囲気とか、気分とかと言うものを、まず自分が作らなければ出来なかった。ところが、こちらは、もう日々が正月の気持ちですから。終わらせて頂く時には、日々が大晦日の気持ちですから。もう私にとっては、実は、正月もなければ大晦日もないです本当に。
さぁ明日正月じゃけん、頭も結うとかんならん。下着も全部新しくしとかにゃならん。明日使うタオルは、新しかっを下げとけよ、と言う事も何にもいらんのだ。そういうもので、只新しい気分を味わおうなんていう事はさらさら思っていない。只自分の心が生き生きとして有難い勿体無い。所謂目出度い心でおれるという事。ですから正月だけれども、皆さんが例えば今日は元旦祭でございますが、それこそ紋付き袴に威儀をを正して、又は正装を凝らしてお参りになります。
本当お正月の気分を味わおうと思うてから、只味わいたいばっかりで、お神様に参って来るという人もあるかも知れません。ですから、私もそれに同調させて頂くだけで有って、実は私は元旦祭であろうが、除夜祭であろうが同じなんです。そういう、私は日々をです頂かせて頂ける信心を、いよいよ身に付けさせて頂こう。本気で一つ私共が五つの願いに徹しさせて頂こう。これは合楽に今神様の働きがあっておるのがね、そういう信心をして、おかげを受けてくれよ。
いやそういうおかげを、ある意味では約束しておられるのです神様が。昨夜の御理解の中にも申しましたように、久留米の初代石橋先生が、永年かかって沢山な借金をしておられた。その借金が払いが出来ん。毎年毎年やっと利払いが出来るだけ。元旦祭を終えられて、そして裏に下がって御直会を頂かれる。お杯を持たれてお屠蘇を頂かれ様とする時に、ふっとそういう事を思われた。あゝ今年もまた利払いで終わらんならんかなぁ。とこうちょっと淋しい思いをなさった。
途端に幽明からお声があった。もう紛れもない二代金光様四神様のお声が頭上にあった。「八百俵の徳を授ける。」と言うお言葉であった。それから震い立たれた。そして神様が、お徳を下さると言うなら、しかも八百俵の徳を授けて下さると仰るのだから、下さるのなら本気で頂こう、頂きもらしちゃ相済まんと言うので、今迄出来なかった事を、改まってなさったと。もうそれこそ永年利払いがやっとかっとであったというのが、一年足らずにしてです。八千円と言う当時の大金の借金が、元利共に払われた。
神様のご発動が始まったらもうそれこそ、あれよあれよと言うばかりです。今合楽には神様が発動なさっておられるものを、私が感じます。そして皆に頼むように、こういう信心をしてくれよと。そして家繁盛子孫繁盛のおかげを頂いてくれよ。家庭円満のおかげを頂いてくれよ。健康の上にも愈々、より健康のおかげを頂いてくれよ。人間の幸せの条件の全てをです備えてくれよと。その為には自分一人ではいけんから、家内にも頼め。子供にも頼め。従業員にも頼め。
頼んででもおかげを頂かなければならない。その頼むと言う事はです。頼まれるその人自身も、おかげを受けなければならんからと言うのである。神様は米八百俵をやるとおっしゃったのじゃなかった。八百俵の徳を授けて下さると言うのである。もう自分方は今別にお金に不自由はしよらんから、家庭はまぁ円満で行きよるから。それは只円満で行きよると。いつ、不円満になるやら、いつその財産が水泡に帰してしまうやら分からない程しのものである。徳の裏付けと言うものがなからなければいけない。
徳を授けると仰る。当時のお米が一俵十円だったそうです。ですから八千円の借金が、八百俵の徳ということになった。しかも借金払いが出来たのではない、八百俵のお徳と言うものは今にです。そんなら、久留米関係の上に、生き生きとして顕れておる。合楽なんかも、その久留米の、言うならば、お徳の中にあって、合楽は生まれたと言うても良いのです。そういう、徳を受けるという事。健康の徳を徳を受ける、家庭円満のおかげを頂かれる、家の徳を頂く。
愈々子孫繁盛家繁盛の大御影を頂かせて貰えれる、私は徳を力を受けさせて頂くという事がです。今こそね合楽ではその事を、私が二十数年間言うて来なかった事なんですから。ここに、金光大神は、子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃと。その道を一生懸命私は説いて来たと思うのです今迄は。それが成り行きを大切にさせて頂くとか、全てを御事柄として受けて行けよと言ういうならば、今五つの願いと言うものが、その受けものを作る事に、一生懸命にならせて頂いたような感じがするです。
だからそれを教祖のお言葉を以って、一口で言うと、天地日月の心になること肝要なりと言う、天地日月の心になることを、一生懸命お互い努めて来た訳です。願いはしなかったそして。願いはもうお取り次ぎを頂いて、お願いをしたら、もう私に任せなさいと。あんた方は天地日月の心になる事に、一生懸命なればいいんだと言う生き方であったでしょう。それが真の信心だと言って来た。勿論真の信心です。
その上且つ願わなければおられないもの。私共の心の底から願って止まないものが、五つの願い。先に言う三つの願いである。後の二つの願いはやむにやまれん、いうならばお役に立たせて頂きたいという心。又はそこに神の心を心として、神願成就の事の為に奉仕させて頂こうと言う心なのです。もう愈々有る意味に於いての完璧な、言うなら信心の構えと言ったようなものがです。
今合楽で説かれておる。だから右から左にさぁおかげと言う事でもなかろうけれども、本気でその気にならせて頂いたらです、必ず印が見えますよ。今一番おかげを受けておるのは、家庭円満を願うからには、決して人を責めませんという事になっているですね。もうこれから先でも、人を責めるという事はいたしません。さぁそれに伴うてくるおかげと言うものは、それだけでも大変な事。
どうでも一つ、そういうおかげを頂いて、今年の信心の一つの、これは今年に限った事ではありますまいけれども。そういう信心をしっかり身に付けさせて頂いて、愈々めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂ると言う程しのおかげを頂いて、日々が元日日々が、大晦日と、そういう信心が身に付いてしまうところ迄の信心を頂きたいものですね。
どうぞ。